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2011年05月01日

江戸川乱歩「屋根裏の散歩者」の引用をめぐって〜『閃光のナイトレイド』補遺



『閃光のナイトレイド』が、意欲的に昭和六年前後の上海や「満洲」を扱い、しかしその描き方が、いささか性質(たち)の悪いものになってしまったことについては既にふれた。以下では、作中で登場した江戸川乱歩「屋根裏の散歩者」とその引用のされ方がなかなか面白かったので紹介する。(「屋根裏の散歩者」を未読の方は、以下で核心が明らかにされています。ご承知置きください。)

「屋根裏の散歩者」は『新青年』大正十四年八月増刊号に掲載されたもので、明智小五郎の友人でもある郷田三良が、東京の東栄館という新築の下宿屋の二階に住み込み、次第に天井裏をうろつきまわって、隣部屋をのぞき込むようになり、完全犯罪という誘惑にとうとう我慢できなくなって動機なき殺人を犯してしまう、というストーリーである。「心理試験」などと同じく、ドフトエフスキーの『罪と罰』を意識したもののようでもあるし、それこそ当時流行の「変態心理」や「異常心理」を描くことが目的であったようにも読める。

『閃光のナイトレイド』においては、この天井から他人の部屋をのぞき込む郷田の有様が、「相手と対等でないこと」を表現する比喩としてまず引用される。

「あの男はアパートの屋根裏から下の部屋をのぞくことで、他の住人より優位に立ったと有頂天になる。」(第7話)

こういって、超能力者である主人公たちは能力におぼれることがないよう自戒するわけだが、その自戒が最終話でもう一度登場する。

「考えてみれば、屋根裏からみえているのはしょせん、節穴からの狭い世界だ。高千穂大尉が預言者を通じて俯瞰した未来も、そんな節穴からみえただけの小さな可能性の一つに過ぎないといまのおれには思える」

というように、屋根裏から節穴をみるという行為、つまり優れた能力や特権それ自体が、かえって物事を見定めるうえでの障害になっていたことをわかりづらく表現するのである。これは一見、原作を再解釈して新たな意味を見出したかのようにみえなくもない。しかし、ぼくが気になるのは、原作の小説が次のように結ばれるからであったりする。

「彼は毒薬の瓶を節穴から落した時、それがどこへ落ちたかを見なかったように思っていましたけれど、その実は、巻煙草に毒薬のこぼれたことまで、ちゃんと見ていたのです。そして、それが意識下に押籠められて、精神的に彼を煙草嫌いにさせてしまったのでした。」
(千葉俊二編『江戸川乱歩短篇集』岩波文庫,1992,p.185)

「屋根裏の散歩者」は、眼前に起きた事象を、きちんと認識していたにもかかわらず、それをみたくない、なかったことにしたいという気持ちによって、「見なかったように」してしまうという、そういう人間心理の描写を主な目的としていたようにぼくには思われるのである。郷田は、節穴をのぞけることに有頂天になって大事なことを見落としたわけではないし、節穴つまり能力に執着したことが、彼の犯罪発覚に結びついたわけではなかった。ただ、彼の人間としての心理がその失敗を導き出した、とそのようにこの小説は描かれていたのではなかったか。

そもそも、郷田が殺害の際に利用した節穴は、「部屋の全景が、楽々と見渡せ」るものであって(同p.151)、まあこんなしょうもないことにこだわるぼくもどうかと思うが、部屋という一つの世界は十分に見渡せるわけで、節穴からみる世界が「狭い世界」であったかどうかもやはり疑問だ。それはそれとしても、「屋根裏の散歩者」が目指していたようにみえる、みたものをみなかったことにする、それを知らずにやってしまう、ということを表現する方が、原典に忠実な引用となったはずであるし、当時の上海なり「満洲」なりを描くにも適切であったのではないか、とぼくには感じられる。

『閃光のナイトレイド』自体が、みたものをみない、あったことを描かない、という「屋根裏の散歩者」への忠実なオマージュであったのかもしれないが、それではあまりにも皮肉が過ぎるというものだろう。

『閃光のナイトレイド』は、江戸川乱歩を、同時代の小説を、きちんと読みこなせなかったのかもしれない。
posted by 岩田秋 at 00:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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